代官山 蔦屋書店 オフィシャルブログ
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ヴィンテージ:写真家・鈴木清氏の「Soul and Soul - 流れの歌」

2014年7月25日10:47

2014 World Cupサッカーであらためて世界にその名を高らしめたオランダは、「写真」の国でもあります。このオランダで、2008年に鈴木清氏の写真展が開催されました(「Soul and Soul 1969-1999」展 ノーデルリヒト・フォトギャラリー、フローニンゲン)。 



 Soul and Soul 1966-1999
 Aurora Borealis/Noorderlichtの表紙

その直後に海外での注目を受けるかたちで、初の本格的な回顧展「鈴木清 百の階梯、千の来歴」が東京国立近代美術館で開催されました。今から4年ほど前のこと。1冊の写真集にこめられた熱量がびゅんびゅん伝わってくる濃厚なダミー本も幾つか紹介され、素晴らしい内容の写真展でした。



2010年は、57歳での死去(2000年)からちょうど10年がたっていました。同年、鈴木氏29歳での第一作品集『流れの歌』が復刊(白水社)され、1冊をのぞきすべて自費出版による鈴木清写真集が再び脚光を浴びることになったのです



当店に在庫している鈴木清氏のヴィンテージ写真集 

ちなみにどの様に鈴木清氏の写真が、オランダにもたらされたのか。それはオランダの写真家マヒル・ボットマン氏が、日本語版『The Line of my Hands』や『Flower is』などロバート・フランクの写真集の発行元で知られる元村和弘氏とのつながりからだったといいます。
共にお互いが所有していたお互いの国の重要な作家の写真集を交換した中に、鈴木清氏の写真集が入っていて、ボットマン氏は初めて見る鈴木清氏の写真集に引き込まれていったといいます。


 鈴木清氏の写真集には、東松照明氏や森山大道氏、北井一夫氏らの写真には写り込んでいないもう一つの日本の60年代が写されていました。それは「炭鉱」でした。炭鉱という場所は、鈴木清氏の写真のそもそもの始まりであっただけでなく、幼少の鈴木清氏の記憶のルーツにつながっています。





自伝的写真集である写真集『修羅の圏(たに)』によれば、父は磐城(いわき)炭鉱の炭坑夫だっただけでなく、祖父もまた、北上川流域の渡り坑夫だったことがわかります。1994年に刊行された7冊目にあたる写真集『修羅の圏』は、その個展とともに、第14回土門拳賞を受賞しているように、極めて充実した、完成度の高い展覧会と作品集でした。
写真集『修羅の圏』は、第一作品集『流れの歌』にちなんで、もう1冊の『流れの歌』ともいわれ、すべての面において鈴木清氏の「原点」、人生の来歴を再度見つめ直したものでした。記憶の土地や人々の面影は、鈴木清氏に旅や文学へと誘い出して行きます。



写真集『修羅の圏』より
 
写真集『修羅の圏』に写された鈴木清氏による1960年代の私的日本原像の一つが、常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)でした。福島のいわき市にある、ヴァーチャルハワイとも呼ばれた常磐ハワイアンセンターは、磐城炭鉱の斜陽化後の雇用創出のための再開発プロジェクトでした(1966年開業)。また、写真集には、東京の墨田区鐘ケ淵紡績跡地の写真が掲載されていますが、そこは、母が青春時代に女工として働いていた場所でした。


 
当時の常磐ハワイアンセンター

少年時代の鈴木清氏の夢は、漫画家になることだったといいます。地元で唯一のオフセット印刷所で画工をしながら夜間高校に通い、卒業と同時に上京。

荷物として急いで行李に詰め込んだもののなかに、土門拳氏のルポルタージュの傑作写真集『筑豊のこどもたち』
(1960年刊行。当時100円。前年には筑豊炭鉱労働者を撮影)があり、この『筑豊のこどもたち』を見ていると写真の世界にどんどん興味が傾いていったといいます。

その写真集を自分で行李に詰め込んでいたわけですからもともと何か心にひっかかるものがあったのでしょう。

 


 上京後、漫画を描くことを止めた後、東京綜合写真専門学校に通いだし(1969年卒業)、故郷の炭鉱を核にした写真シリーズ「炭鉱の町」で写真家デヴュー。「カメラ毎日」での連載でした。27歳の時です。

最初の作品集『流れの歌』を自費出版したのはその2年後の1972年のことでした。森山大道が『写真よさようなら』、荒木経惟が『センチメンタルな旅』を刊行した翌年のこと、ほぼ時期を同じくしています。



 写真集『天地遊戯』より

 
 写真(集)は写真家自身の強烈な個性や私性であったり、表現欲やドキュメント性のうちに制作される一方で、鈴木清氏のそれは、写真(集)のなかに魂と魂のつながり、流れ、消え去るものを定着させたもので、パーソナルな原郷でありつつ、個人を突き抜けたところに生まれたものでした。それが「Soul and Soul- 流れの歌」でした。



写真集『流れの歌』より


Soul and Soul」。魂と魂のつながりにおいて、興味深いのは写真家・金村修氏とのつながりです。どんなつながりかといえば、東京綜合写真専門学校での先生と生徒の関係でした(当時講師は柴田敏雄氏や小林のりお氏らもおりいろんなワークショップや講義が行われていましたので、鈴木清氏に限定されるわけではありません。ただカメラはローライを用いたのち最終的に、尊敬する鈴木清氏が用いていたプラウべマキナ6×7におちつきます。プリントは同校の先輩、春日昌昭のプリントに大きな刺激を受けている)。

写真集『天地遊戯』より

鈴木清氏の急逝後には、遺されていた展示案をもとに鈴木清氏の写真展の設営を金村修氏がおこなっています。東京綜合写真専門学校に学んでいたとき、鈴木清氏は昼は看板の文字書きをして生計をたてていましたが、金村修氏も夕刊紙を運び屋となり、以降20年間その仕事を継続します(仕事の合間の時間帯に他の駅にまで行き、マキナで1,2本のフィルムを撮りつづけてきたことはよく知られています)。



自身の展覧会で講演する金村修氏


鈴木清氏の「シリーズ炭鉱」は、金村修氏にとっては「シリーズ駅前の光景」とはいえないでしょうか。東京生まれの金村修氏にとって、駅前のカオスさは、少年時代の金村修氏の記憶に濃密に焼き込まれた場所だったはず(意味のあるものをどんどん剥ぎとっていく作業をしていたので、逆説的に残ったのが駅前のノイズということに。金村氏にとってそこは好きな場所などでなく80Sの東京は嫌いですらあった)。
 

 金村修写真集『SPIDER'S STRATEGY』(現在当店在庫あり


プリントというフラットな時空へと現実がプレスされた時、駅前のノイズは圧縮され、物質的なモノとコトの奇妙な混交となっていったのです。


金村修作品

その金村修氏もまた、オランダとは縁がありました。東京綜合写真専門学校在学中、ロッテルダム写真ビエンナーレに招かれ、「駅前のカオスな光景」が海外の写真好きの人たちに支持されたのです。言葉の翻訳がいらない文学とちがって写真(集)は国境を超え、その地の写真(集)好きな人たちの視線にとまり、その視線や感性がまた契機となってひろがっていきます。それが、Soul and Soul - 流れの歌、の一つのかたちかもしれません。



アートコンシェルジュ 加藤正樹

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